@article{oai:tsuru.repo.nii.ac.jp:00000339, author = {田中, 実}, issue = {81}, journal = {都留文科大学研究紀要, 都留文科大学研究紀要}, month = {Mar}, note = {本稿は拙稿「〈全体〉の構築」(『日本文学』第 62巻第8号二〇一三・八 2-12頁)、同じく拙稿「続〈主体〉の構築―魯迅の『故郷』再々 論―」(『国語教育思想研究第八号』二〇一四・五広島大学教養学部難波博孝研究室19-30頁)及び「世界像の転換、〈近代小説〉を読むため に―続々〈主体〉の構築―」(『日本文学』第 63巻第8号二〇一四・八 2-14頁)のさらに続稿、言わばその実践編である。現在、文学作 品が読まれるためには、ポスト・ポストモダンの世界観認識、〈第三項・語り〉論が要請されなければならない。『きつねの窓』と『走 れメロス』の双方は、共に「物語」を語る〈語り手〉自身が己の語 る物語の重さを捉えることができず、しかも、そのことに自意識を 持てずにいる。すなわち、文学研究でも文学教育でもこの作品の基 本的な〈語り手〉と語られている出来事との相関に問題があると言 わざるを得ない。それはもともと「物語」とか「小説」とか、その 根源的なことが考えられてこなかったからだ。物語とは因果関係を 取ることだが、その「因」と「果」との相関の必然性、すなわちメ タプロットが捉えられていないまま語り手は語り終わっている。そ のため、「心」を見失っていることを浮上させている。文学作品を 読む制度がそれを失わせているのである。それは〈他者〉の問題の 欠落に外ならない。末尾にはハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳新装版一九九四・二みすず書房)を対比させた。}, pages = {(37)--(55)}, title = {「物語」の重さ、「心」のために―安房直子『きつねの窓』・太宰治『走れメロス』を例にして―}, year = {2015} }